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カバレージに求められていることは結局何なのか?

本記事にはライターおよびプレイヤーに対する中傷をする意図は一切ありません。要望があれば即削除いたします。

 

これの話をするよ

dm.takaratomy.co.jp

 

 

なぜ問題になったのか?

GPのTOP4を決めるゲームのカバレージの内容が、「カードの名称を一つも書かない」という手法によって書かれていたため、複数の観点から批判を浴び、結果炎上*1している。

よく見る批判を検討してみる

実際どのような批判が寄せられているのかを知ることは難しくない。引用リツイート欄から矢のように批判ツイートが押し寄せてきているからだ。

一度ここでこれらの批判がどのように区分され、またどれほど妥当なのか検討していきたい。

よく見る批判①:作者の文章能力に対する批判(文章が下手、文章力がない)

結論から言うと、この批判は完全に的外れであり、このように批判するべきではない。何故なら、今回問題なのは文章の構成ではなく、カード名をわざわざわかりづらく書いていることだからだ。現に、カード名を補った記事が有志によって作成されているが、これが読みづらいと感じる人は少ないはずだ。

note.com

実際、調べてみるとこのカバレージのライターは過去に大型大会でのカバレージの経験をもっている。文章能力の欠如ゆえに今回の記事が生まれたと考えるべきではない。

よく見る批判②:カバレージの格を下げたことへの批判(作者の悪ふざけが過ぎる)

バレージに自分の試合が載ることはある意味誉れなことである。今大会であれば4000人という大人数が参加した中で、フィーチャーされカバレージとして残るのは20-30人程度だろう。せっかくそんな誉れな舞台に立てたのにこのような実験的なカバレージにされてしまっては、プレイヤーの心象が悪いというのが、この批判の根底にはありそうである。

バレージの読ませ方を増やす機会は必要だが、プレイヤーが”犠牲”になることはあってはならない。なかなか難しい問題である。しかし、これに関して一つ確実に言えることがある。それは、「外野が口出しすべきではない」ということである。

「きっと心象が悪いだろう」で批判をしにかかるのは、ライターのみならずプレイヤーにも失礼である。この点は重要な要素かもしれないが、当人たちの反応を見守るのが得策である。

よく見る批判③:可読性への批判(わかりづらい、普通にカード名を書け)

普通に読めたはずの文章をわざわざわかりにくくすることは文字を書くうえでは完全に悪手(画像に意味はありません。)

今回問題にすべきは明らかにこの点である。はっきり言って、このカバレージは可読性の観点で「読み物」の水準を満たしていない。もちろん、これがおそらく実験的な試みであるということを加味したうえでも、許容できないだろう。

バレージ(Coverage)とはそもそも報道を意味する英単語である。起こったことを伝えるという本来の役割から離れて文章を加工してしまったという点で、このカバレージは読者の混乱を生じさせているのである。

バレージに求められていることとは結局何なのか?

動画との差別化点

デュエルマスターズは動画文化が栄えているTCGだと感じる。ゲーム展開、環境は悪、ループの証明方法といった実用的な部分のみならずカジュアルなコンテンツも充実しているのがデュエルマスターズの動画文化である。その中で文章のカバレージが差別化できる点は例えば以下のようなものだろう。

プレイヤーの表情、発言、プレイヤー同士の関係値などにフィーチャーできる

動画では基本的に盤面のみ(顔が映っていたとしても端に載る程度)が表示されているため、私たちはゲームの進行を淡々と見守ることになる。しかし、カバレージであれば一手一手がどのような重みを伴っていたのかとか、実はミスで焦りが出てしまったとか、そういう人間同士のゲームであることを感じやすい。この点は間違いなくカバレージの有力な強みの一つである。

以下にこの強みが出ている*2バレージを掲載する。

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試合内容はあっという間にサガループが成立してゲームセットという淡白なものだが、ライターが両プレイヤーの関係値を上手く拾ったことが功を奏し、読み物としての面白さを獲得している。

本来の時間経過とは別軸の厚みを持たせられる

例えば、決勝戦の最後の場面。あなたは最後のシールドをブレイクする。用意できたのはジャスキルのみ。この一枚がトリガーやGストライクでなければあなたは優勝の栄冠を手にする。今日一日が、いや今日までのデュエルマスターズすべてが報われる瞬間である。一方でその逆もしかり。相手がシールドの中身を確認している間、様々なことを考えるだろう。

この間の体感時間というのは、実際の時間よりもずいぶんゆっくり流れているはずだ。しかし、このプレイヤーにしかわからないゆっくりと重たい緊張感は、残念ながら動画では届きづらい。あっさりと結果が見えてしまうからだ。

文章であれば、こういった部分にはいくらでも厚みをつけることができる。当事者さながらの緊張感とかそういうものを表現できるのは、カバレージの強みである。

ライターが文章の切り口でオリジナリティを出せる

マッチアップと背景ストーリーをリンクさせたり、登場するプレイヤーの使用デッキをそのプレイヤーのかつてのデッキ選択とリンクさせたりすることでカバレージにゲーム内容そのものの面白さに一つ要素を増やせるのも、カバレージのいいところである。

レクスターズ軸のデッキがディスペクター軸のデッキと対戦していたり、いつもハンデスを使うプレイヤーが≪モルトNEXT≫を選択していたりすると、私たちはゲームの内容以上のところで感情移入することがある。それは、デュエルマスターズが愛されるコンテンツであることの一つの証左であって、それを引き出せるカバレージが必要である理由の一つである。

なぜこのカバレージは生まれたのか?

筆者による妄想

この点については推測するしかないが、個人的には「一緒に動画も撮ってるからゲーム内容はそっちで補完できるでしょ」という考えが透けているように感じる。

要するにこのカバレージの手法の狙いは「GPの大舞台で緊張感があるゲームなのにカード名が伏せられている」というギャップの面白さである。何がプレイされてどのようにゲームが進んだかは動画を観ればわかる。だからカード名を伏せても読者の抵抗は少ないはずだという意図を感じるのである。

しかし実際、カバレージは思ったよりも単体のコンテンツとして読者に受容されていたのである。「動画+カバレージで楽しんでもらおう」という意図と読者のカバレージの楽しみ方。ここがかみ合わなかったことで、今回のようなことが起きたのではないだろうか。

でも…

これはライターからしてみれば嬉しい誤算でもあるように思われる。月並みだが、多くの批判が来るということは、それだけの関心を持たれているということである。今回の件のみでライターを、ひいてはカバレージという文化をジャッジすべきではない。

これからもカバレージデュエルマスターズの競技シーンを彩り続けてくれることを祈って、(あとカバレージ用のフィーチャーとかもいっぱい増えることを祈って、でカバレージ書く人が増えることも祈って、)この記事は終わりにする。

まとめ

バレージ専用のフィーチャー積極的にやってほしいな~

*1:こういった強い言葉を使うのは気が引けるのだが、便宜上このように表現したい。

*2:と思われる。素人なので間違ってるかも……